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2011/12/25 第10回演奏会は終了しました。1,300名を超えるご来場、ありがとうございました。次回の演奏会は未定です。決まりしだい、お知らせいたします。

第一部 概説

人間は絶えざる自己超克を運命づけられた苦闘的存在である

- 埴谷雄高のエピグラム

快進撃の蔭に高まる不安

ボヘミアの片田舎のユダヤ人商人の子として生を享けたグスタフ・マーラーは1897年、ついにユダヤ教を棄教する事を代償として、当時の世界楽壇の頂点であるオーストリア・ハンガリー二重帝國宮廷歌劇場(要するにヴィーンの歌劇場)の総監督に就任した。 権謀術数渦巻く伏魔殿でのマーラーの活躍はまったく目覚しく、実力のない人気歌手の切り捨て、スレツァーク、マイアー、ミルデンブルクら新進実力歌手の起用、分離派(ゼゼッシォン)のロラーと組んだ大胆な演出、そして何よりも彼自身の苛烈を極めた指揮芸術の圧倒的な魅力により、中欧の首都であるヴィーンの全階級をとりこにし、200年になんなんとするヴィーンの歌劇場の歴史における明らかな頂点を築き上げたのである。 かつその過程で彼は当時のヴィーン社交界最高の名花、名画家の忘れ形見で文学音楽絵画の全てに通暁したミューズともいうべきアルマ・シントラー(注1)の心をも射止め、さらに二人の娘に恵まれるという、正に行く所可ならざるはなき進撃を続けていた。

が、市民の中の根強い反ユダヤ感情を利用した、反マーラー一派の執拗な攻撃や、歌手にも楽団にも一切の妥協を許さぬ厳しさによる歌劇場での立場の悪化(さる老歌手は彼を「ユダヤの黄色い猿」と忌み嫌った)、彼の後半生に暗い影を投げかける事になる心臓疾患の兆候、年齢、出身階級の違いによるアルマとの気持ちのすれ違いなどにより、次第に彼の心身は苛まれていった。 それら全て自分の前に立ちはだかる障壁を打ち破らんとせる彼の闘争心、それとは裏腹に全てを喪う事になるのではないかとの焦燥の念、それらの複雑な思いが渾然一体となり、外面的には彼の輝かしいキャリアの絶頂期に、彼の全作品中、最も壮絶で絶望的な大曲、第6交響曲は生み出されたのである。

作曲の経過

平時は歌劇場の監督としての激務をこなすマーラーにとって本格的に作曲できる年一回のチャンスは夏の休暇であった。 この時、彼は膨大なスケッチを抱え、避暑地にある「作曲小屋」にこもり、一作一作、巨大な作品を生み出していった。 第6はその例に漏れず、1903年と翌年にマイアーニッヒの作曲小屋にてスケッチが完成され、翌年総譜が完成。 1906年にエッセンで音楽祭のメインとして彼自身の指揮により初演された。 リハーサルには相当時間をかけたらしいが、技術的にあまりにも高度であるのと彼が自分の感情が終楽章によって限界を超えてしまうのを恐れて(それも極めてご尤も)、あまり成功しなかったようである。

注1)アルマ(1879−1964)
いわずとしれた20世紀初頭ヴィーン最高の知性、感性を誇った美女で多情な事でも有名。 マーラーとの結婚前にツェムリンスキィと浮き名を流し、マーラーと結婚後もマーラー在世中に若き建築家グロピウス(第一次大戦後の「バウハウス」運動(建築に総合される造形芸術全般の革新を図ったもの)の中心人物となる偉大な人物)と浮気、マーラーの死後、グロピウスと結婚するも破局、画家ココシュカとの熱烈な恋愛の後、オーストリアの文豪フランツ・ヴェルフルと結婚し、晩年はアルマ・マーラー=ヴェルフルと称した(つまり音楽家、建築家、画家、作家と愛し合った訳である。 自分だけ勝手に色々なタイプの芸術家に夢中になる女性なら数多いるだろうが、その全てから愛される女性というのはある意味とてつもなく凄い)。 1940年に発表された「グスタフ・マーラー 回想と手紙」は貴重ではあるが、マーラー(というのか自らの)神格化の為に嘘八百も多く、あまり信憑性がない。

第二部 楽曲解説

目次

高橋 広
純朴無比なアマチュアヴァイオリン奏者。 一部では子供の名前に楠強(グスタフ)とつけようと本気で考えていただの、日本で演奏されたアマオケによるマーラー交響曲第10番完成版の演奏会の全てに出演しているだのといった忌まわしい噂が流れているが、はっきり言って全て事実である。 最も熱愛する作曲家はブルックナーとマーラー(この二人にバルザック、ドストィエーフスキィ、トーマス・マンを加えた5人が自分にとって至高の存在)だが、バッハ、ベートーヴェン、コルンゴルト、シュレーカー、シベリウスといったオーソドックスな作曲家も愛しぬいている。 2008年オスフィルでのマーラー交響曲第6番が自身32回目のマーラー演奏となるが、マーラーのエイジ・シューター(年齢の数だけマーラーを演奏)にはあと一歩届かず、無念の日々を送っている。