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2011/12/25 第10回演奏会は終了しました。1,300名を超えるご来場、ありがとうございました。次回の演奏会は未定です。決まりしだい、お知らせいたします。

第二部 楽曲解説

それにしてもなんという悲しい唄声よ・・・

まるで魂をひきさかれるような慟哭よ

しかしその悲しみの中には嵐に立ちむかっていくような力強さがある

− 宮下あきら「魁!男塾」

燃えたぎる情念とソナタ形式の全面的激突

第6はマーラーにしては珍しく、外面的には古典的な4楽章形式をとり、両端楽章はソナタ形式(注2)、間にスケルツォ楽章、緩徐楽章が挟まっている。 更に第一楽章は呈示部の繰り返しがあり、外見は、絵に描いたようなオーソドックスぶりである。 だが、伝統を内部から解体したマーラーの事、一聴すればわかるように、とても伝統的なソナタ形式で割り切れるような単純な代物ではない。 音楽史上の他のどんな曲よりも切迫した、鮮烈なプロテストが、マーラーの全交響曲の中で最も整然たるソナタ形式の中に封じ込められているのだ!いわば、無双の勇者(=マーラー)が満身の力を込めて押さえ込んだ噴火山のそこここの隙間から、赤いマグマの舌がチロリチロリと舌なめずりをしているのが垣間見られ、いつそれが炸裂してその勇者を呑み込み尽くすのか、全く予断を許さないような状況(そして実際、最期に勇者はマグマに呑み尽くされるのだ!!)とでも表現出来ようか。 決して相容れない両者の宿命的な対立・軋みは、他に類を見ない凄まじい緊迫感を生み出し、聴者・奏者ともども、異様としか表現しようのない興奮状態に叩き込むのである。 そしてそのぎりぎりの均衡に加え、この曲のもつ壮絶なエネルギーはマーラーの全作品の中でも突出して凄まじく、ことに巨大な終楽章はそもそもextraordinary(フツーじゃない)な彼の作品の中でもとりわけ異常の極みで、全編ふつふつとたぎる情熱と生命力に覆い尽くされ、超絶的なテンションが30分以上持続するのだ。

悲劇に立ち向かう能動性

実際この曲は、「悲劇的」という題名がついてはいるが、例えば涙にかきくれるような、或いは涙を滲ませながらじっと耐える、といったような悲劇性は余り感じられない。 それよりも圧倒的な何者か−それはありきたりではあるが「運命」と形容してよいのかもしれないが(注3)−に最後の最後まで立ち向かおうとする英雄的精神の人物の壮絶な闘争といった方がよいのではないかと思われる。 しかもその闘争は輝かしい勝利によってではなく、悲惨なまでに残酷な一撃を受けて敗れ去り、死に絶える事によって終わるのである。 彼は当初から殆どそれを確信しつつも、最後の鉄槌が振り下ろされる瞬間まで絶望的な闘争を繰り広げる。 彼にとっては、勝利を得るかどうかは全く問題ではなく、最後まで闘い続けるかどうかだけが最も重要な点であるかの如くである。 村井翔氏の「主人公はギリシア悲劇の英雄のように最後まで戦うことをやめず、勝利の目前で前向きに倒れて死ぬ」という表現は正にこの曲の本質を衝いたものといえる。 マーラーは幼少の頃、学校で将来に何になりたいか、という教師からの問いかけに目を異様に光らせながら「殉教者!」と答えたという。 雀百までというのか、第6交響曲における彼はその時の精神そのままに闘う事をそして敗れる事を運命と認識して闘争しているのである。 第一部冒頭に掲げた埴谷雄高(彼もマーラー同様ドストィエーフスキィに強くインスパイアされた人物である)のエピグラム、そして第二部冒頭に引用した「魁!男塾」に登場する王大人ワンターレン(彼がドストィエーフスキィの薫陶を受けたのかどうかは定かでない)の台詞などは、正に第6におけるマーラーの姿をそのまま現しているものといえるのではないか。

巨大なスケールの作品群

また巷間、彼の交響曲の中で、声楽を伴う第2、第3、第4、そして第8とそれに続く歌曲的交響曲「大地の歌」に挟まれた声楽なしの純器楽交響曲という事で第5、第6、第7は器楽3部作と称される事が多いが、筆者は寧ろ、第5を中心に第2、第3、第4と対をなす、第6、第7、第8の3部作こそが内容的に完全に連結した一つの小宇宙を形成していると考える(そしてその後には音楽史の頂点に屹立する不滅の「大地の歌」、第9、第10の至高の3部作が待っている。 勿論究極的に言えば、彼の全交響曲は彼の歌曲と共に巨大な一つの連作と考えるべきではあるのだが)。 彼の実人生の栄枯盛衰とは内容的に若干タイムラグを置くような形で作曲された、この三部作はかなり密接な内容的連関を持っている。 詳細な説明は紙数の関係で避けるが、 「死は、掟です。それが当然の宿命なのです。(高橋義孝氏訳)」 と叫び、死ぬ事がわかっていながら天空に飛翔せんとし、無惨に墜落し惨死するオイフォリオン(注4)が如く壮絶で悲惨な第6、第6の気分をそのまま引き継いだ暗鬱さから始まり、彼岸を感じさせる第四楽章を経て壮絶な、ある意味不気味な陽気さをもったカーニヴァルで終わることにより、あらゆる歓喜や勝利をも相対化してしまった第7 (この曲について詳細は、名古屋ムジークフェライン管弦楽団のサイトに掲載されている拙稿の第7交響曲の曲目解説をご参照)、 そしてその第7の統一主題と強く連関する主題が冒頭から炸裂するマーラー唯一の全肯定交響曲たる第8 (第6とあらゆる意味で対極に位置する作品。しかも第8の第二部は先のオイフォリオンの父たるファウストの終景が歌詞となっている) はそれぞれが独立していても壮大な世界を持っているが、この3曲が並んだ時、聴き手は更に深く豊穣な宇宙が形作られているのを改めて見出すであろう。

トテツモない巨大編成

第6交響曲は編成の巨大さも異例で、木管5管編成(!)にトランペット6本の超重量級の管弦楽に加え、大量の打楽器が投入され、ティンパニ、大太鼓、小太鼓は当たり前、ムチ、タムタム(銅鑼)、ヘルデングロッケン(牛の首につけるカウベル)、更には新楽器ハンマー(巨大な木槌で木の台を思い切り強打する、という楽器。マーラーは「大木の根に一撃を加えるように」、というような抽象的な指示をしている)などの異色楽器も登場する。 その打楽器の音色、また未曾有の大編成管弦楽の精妙なる使用法により、非常に豊かな色彩感が生み出され、シェーンベルクやベルク、ヴェーベルンらにそれまでのマーラーのどの交響曲よりも深く影響を与えたが、一方で余りにも多くの新奇な楽器の導入は批判や嘲笑も浴び、膨大な編成を揶揄する戯画まで書かれるに至ったのは早すぎた者の悲劇というべきか。 しかしマーラーもそれを理解していたのか、友人のシュペヒトにあてた手紙で「わたしの「第六番」はわたしの最初の五つの交響曲を吸収し、それを真に消化した世代だけがその解決を企てうる、なぞを提供するだろう(西原稔氏訳)」と記している。 とまれこうまれ、全く新しい内容の音楽を、ソナタ形式に封じ込めて表現しきったマーラーの手腕は圧倒的という他ない。

壮麗な死の進軍 − 第一楽章

第一楽章は、殆ど暴力的な行進曲といえる低弦の刻みに導かれて登場する勇壮にして無慈悲な第一主題と、妻アルマが自らを表した主題と回想録で記した(彼女は相当なハッタリ屋であるので、それが本当であるかどうかは全く定かではないが)美しくも情熱的な第二主題が呈示部で示される。 呈示部が型通り繰り返されると、展開部に至るが、通常通り次第に第一主題をもとに音楽が烈しく盛り上がっていくかと思いきや、展開部の途中で、突如として全く別の世界が始まる。 「遠い場所におかれるように」とマーラーが指示したヘルデングロッケン(放牧される牛が首につける所謂カウベル)がガラガラと鳴り響く中、音楽は高山の霊気が漂うような神秘的な雰囲気の音楽に一変するのである。 因みにマーラーがヘルデングロッケンを用いる時は、現世と天国、此岸と彼岸を繋ぐ高山をイメージしている事が多いが(原出典は不明だが、ドゥニ・レメリはマーラーの発言として「私はとても高い山なみに登った。そこでは聖霊が息吹きをしており、私は自然の牧場のなかを牛の鈴にあやされて進んだ。(高橋英郎氏訳)」という言葉を彼のマーラー論で引用している。)、ここは正にその典型例といえる。 マーラーが此処において闘争的な現実と、理想としての天上界、或いはその天上界に直結する神秘的な高山を対比させる意図があったのかもしれないが、しかし勇壮な楽章の激烈な展開部の、よりによってど真ん中に、かくも静謐で霊的なエピソード(渡辺裕氏は「エアポケット」と評しているが正鵠を得ている)を挿入するというのは、従来のソナタ形式の概念からは大いに逸脱している。 ただアドルノはむしろこういった「エピソード」こそマーラーにおいて本質的な意味を持つものと指摘している事も一言しておく。 そしてこのエピソードは始まった時と同様、唐突に終わり、やにわに元の烈しい闘争が始まるのである。 音楽は一応ソナタ形式らしく一通り再現部にて第一、第二主題が再現された後、不気味な弱音の行進曲を経て、第一楽章としてはかなり異例な、長大なコーダに至り、激烈ではあるものの、悲劇一辺倒というよりはむしろ雄々しく華麗に結ばれる。

邪悪のタクミの技、ここに極まれり − 第二楽章

第二楽章のスケルツォ(注5)は、短いが非常にシニカルでクレバーな楽章であり、聴く者は通常のスケルツォを期待していると、常に予想を裏切られる羽目に陥る。 形としては第一楽章第一主題と同様な勇壮で暴力的な(しかしトリックが随所にしかけられた)スケルツォ部(A)、一件鄙びた優雅さに見えながらかなり邪悪なトリオ(B)が中核となり、それに短いながらも印象的な、弦のコル・レーニョ(弓の木の部分で楽器を叩く奏法)を伴う、場末のダンスホールの下品な音楽の如き経過部(C)が絡みABCABCAの形で並び最後にコーダという形で構成されている(本当はスケルツォなのでスケルツォとトリオでABABAから構成されるというべきだが筆者が経過部の品の無さを偏愛する故に強引にC部と称した)。 そのアイロニカルな内容もさる事ながら表現そのもののユニークさは完全に彼の第7交響曲(彼の作曲技法の頂点にして20世紀で最も独創的な音楽の一)に繋がっていくものである。 そもそもスケルツォ冒頭からしてアウフタクトのティンパニの強打と一拍目の低弦の力強いアクセントがずれているというトリックが仕掛けてあり、聴く者はどこが第一拍なのか頭が混乱するだろう(と書いてしまえば混乱しないでしょうが。 探偵小説の論評と同様、解説者はあまりしたり顔で手の内を明かさずに、むしろ聴く人に素直にマーラーの術中にはまって頂いた方がいいのかも)。 また強烈なスケルツォの中にトリオ主題の萌芽が見られ、逆にトリオの中にもスケルツォが忍び込み、いわばスケルツォとトリオが相互に腹を探り合いながら表敬訪問し合っている如きところなども大変面白い。 トリオでは露骨なスフォルツァンド(強アクセント)やスビートフォルテ、スビートピアノ(急強音、急弱音)等が連続し、聴く者のみならず弾く者も狐に鼻をつままれそうになる(が弾く方はつままれちゃいけないのは言うまでもなし)。 音楽は緻密に皮肉に、巨大で精緻な建築物のように組み立てられていくが、最後のAの部分が最高潮に達した瞬間、急激に崩落する。 と、途端に寒々とした曠野が広がる。 ヴァイオリン、オーボエ、変ホ調クラリネットなどが、負け惜しみのようにシニカルに、しかし実は意外に切実な訴えかけをするが、所詮それにまともに答えるものとてある筈もなく、音楽はそのまま虚ろに不安げに終わる。

不吉な予感の的中と楽園の喪失 − 第三楽章

第三楽章アンダンテは非常に美しく、終楽章の圧倒的な内容に辟易していても、この楽章だけは偏愛する人も多い。 優しく震えるような2つの主題による変奏曲形式であるが、マーラーが第6と同時期に作曲していたリュッケルトの詩による「亡き児等を偲ぶ歌」の悲しいリフレーンが感じられる。 途中カウベルによる彼岸の安らかな世界が、第一楽章とは違い舞台上で(即ち「遠いところに置かれたように」ではなく)鳴り響き、第一楽章では「遠いところ」であった彼岸に、遂に英雄(=マーラー)が辿り着いたかのような印象を抱かせる。 しかし後半一気に激情が迸り、悲劇的感情が頂点に達した時、カウベルは安らぎや慰撫としてではなく、断罪の宣告であるかのように暴圧的に打ち鳴らされ、彼岸と思っていた場所は決して永遠の安息の場所でなかったという残酷な現実に直面する事となる。 だが音楽は烈しく泣き崩れる事なく、悲しみに耐え抜くように美しく力強く謳いぬく。 王大人ワンターレンの言葉通り、正に「その悲しみの中には嵐に立ちむかっていくような力強さがある」のだ。 そして音楽は嫋々たる余韻を残しつつ消えていく。

巨大な悪夢、敗北が既定された生の絶望的争闘 − 第四楽章

第一編 精神の最終戦争

そしていよいよ壮大無比の第四楽章が開幕する。 これまでも断片的に記してきたようにこの楽章はまさに第6の凄惨な結論であり、丁度トーマス・マンが10年後に「非政治的人間の考察」において行う事になるものと同様(注6)、精神の全てを賭けた一種の最終決戦ともいうべき内容である。 ソ連の著名な音楽学者、イヴァン・イヴァノヴィチ・ソレルチンスキー(注7)はこのフィナーレについて「音楽は突発性と過敏性と、ほとんど絶叫にまで達する特異な情緒的緊張ともいうべき性格をおびる。 総譜のページは、文字どおり血で記されたかのような印象を呼び起こすのである。(田辺佐保子氏訳)」と鋭い形容で的確に内容を言い表している。 独特の神秘的な冒頭からヴァイオリンによる決然とした「枠主題」(「展覧会の絵」のプロムナードのようなものを想起して頂きたい)が奏されると第一楽章にも現れ全曲を緊密に統一する運命リズムと運命和音(長3度和音→短3度和音)が現れる。 長大な序奏部では暗く蠢くように進む。 先程までは天上の象徴だったヘルデングロッケンは、今や場違いに、パロディックにさえ響き、音楽の行方は全く知れない。 次第に音楽が盛り上がって行くと漸く決然たる決戦の火蓋が切られ、呈示部が始まる。 激しく闘争的な主題が呈示され、かすかな安らぎの予感を秘めた副次部主題と、いわば明と暗との闘争が続く。 その後、枠主題が再度奏され、ここから展開部に突入する。

第二編 史上類を見ぬ巨大な展開部

シューベルトの第9(最近は第8と称される事が多い)交響曲「グレート」はシューマンによって「ジャン・パウルの四部からなる長大な小説(「巨人」の事)の如く天国的な長さ」と評されたが、この第6の終楽章展開部は「ドストィエーフスキィの三部からなる長大な「悪霊」の如く地獄的な長さ」と言いたくなる程、長く烈しい。 展開部は全体として4部に分かれている。 第一部は圧倒的なエネルギーを孕みながらひたすら上昇を目指す(この部分のヴァイオリンの上昇音形は絶望的に救済を求める絶叫のようであり、マーラーの第2交響曲「復活」最終コーラスの「zu Gott!!(神のもとへ!!)」の繰り返しを思い出させる)。 それが極限まで到達し、異常なまでに盛り上がりきった頂点で、運命の鉄槌たる「ハンマー」が炸裂する。 途端に音楽はそれまでの強烈なベクトルを喪い、迷走しつつ第二部となる。 そして苦闘の後に漸く陣容が立て直されるかと思いきや、四方から金管の暴力的な攻撃を受け、あたかも千尋の谷に突き落とされたかの如き瞬間、一瞬の空白を経てムチの連打を伴う暗鬱な行進曲の第三部に展開していく。 その行進が壮絶な展開を経て、どうにか救いの光を見出し、ゆったりと安らぎに向かいかけ、その扉を開ければ遂に救済が訪れるかと思えた瞬間、二発目のハンマーが打ち下ろされ、圧倒的な金管のコラールが最後の審判を告げる第四部となる。 死闘(とはいえ、ここでは殆ど防戦一方の様相)のような第四部が転ぶように早まって終わると、みたび枠主題が演奏され再現部に移行する。

第三編 ハンマーにこめられた意味

ハンマーについては、先年病没した、バーンスタイン、テンシュテットと並ぶ史上最高のマーラー指揮者、ガリ・ベルティーニが金子建志氏との対談で以下のように述べている。

「この音について、2つのイメージを持っています。 一つはギロチン、もう一つは原爆。 妙な取り合わせですが、2つに共通するのは、最終的なもの、非常に頑強なもの、一瞬で、何の余韻も残さない音です。 (中略)もしもフランス革命時の十万倍のギロチンがあったとしたら・・・そしてわれわれの「世界」の首を斬ってしまうとしたら・・・そういった意味で、私はギロチンというイメージを持っています」

更にベルティーニは、全人類の運命に関わる悲劇という視点からこそ第6は生み出されたと続けている。 アルマの説く「マーラーの最も個人的メッセージ」説とはある意味対極的な意見だが、ハンマーの持つ(というよりはハンマー部分の音楽そのものが持つ)イメージを大変に見事に言いえており、極めて説得力がある。 結局のところ、真に偉大な芸術作品がしばしばそうであるように、普遍的か個人的かのどちらかへの決め付けはナンセンスであって、マーラー第6交響曲は、最も個人的な告白でありながら、最も普遍的な悲劇や破滅をも表現し尽くしており、その両者どちらでもあることにより、無比の高みに到達していると言えるだろう。

ただ、ハンマーの音は視覚的インパクト程には音としては聞こえにくく、あくまでもハンマーは、それが打ち下ろされる箇所の音楽総体の象徴として考えるべきではないかと思われる(ハンマーに期待しすぎるとそこでお客さんの集中力が途切れてしまう事があるが、音楽の中身としては逆にハンマー以降、更に切迫してくるのだ)。 従って、ハンマーの音には過度の期待を抱かないで頂きたい・・・と普段なら言っているところだが、本日は弊団が誇る最強(兇?)のハンマー奏者が、一年に及ぶ試行錯誤の上、遂に完成させた究極のハンマーが披露される。 本日のハンマーが、史上最強(狂?)とさえいわれるアバド/ルツェルン祝祭管におけるハンマーをも凌駕する、本日ご来臨の皆様の生涯にわたるマーラー第6リスニング体験の中での、ベストハンマーとなるのではないかと期待しております!!

第四編 唯一の救いの希望は無惨に潰えさり・・・

再現部冒頭ではヘルデングロッケン(カウベル)が再び「遠いところから」低音の鐘と共に鳴り響くが、最早それは高山の霊気も、一片の安らぎさえももたらさず、不気味に鳴り響くばかりである。 しかし第四楽章で唯一明るい音楽ともいえる副次部メロディーをオーボエが奏すると、音楽は残る力を振り絞り再び蘇る。 しかし! 正に「悲劇的」な事であるが、唯一の救いである第二主題が先に再現されると言う事は、それが結論とはならず、その後であの悲惨で暴力的な第一主題が「結論」として再現されてしまうのではないか!? そしてその不安は適中し、第二主題が盛りあがる中から唯一の希望を嘲笑するように狂猛な第一主題がふてぶてしくせりあがり、とうとう勝利を得られない事をほぼ確信したマーラーの、最後の最後ともいえる死に物狂いの闘争が始まるのである。

音楽というよりは戦場での生々しい肉弾戦の描写の如き死闘、或いは処刑場での絶叫のような叫喚の末、遂に音楽は、ベートーヴェンの第5交響曲「運命」の余りにも有名なブリッジパッセージ(第三楽章から第四楽章にアタッカ(休みなし)で至る部分。 暗く蠢く第三楽章が昇り詰めた瞬間、ティンパニの強烈な一打と共に偉大な勝利の行進曲たる第四楽章が始まる、あらゆる音楽の中で最も感動的な瞬間の一つ)を思わせずにはおれない箇所がやってくる。 長い長い、そして余りにも苦しすぎる闘争ではあったが、ここを超えれば、間違いなく安息が待っている。 そんな期待に傷ついた胸を高鳴らせながら飛び込んだ先は、しかし最も深く冥い闇黒であった。 正に此処こそオイフォリオン的「英雄」が墜死する瞬間だろう。 それが証拠にマーラーにおいて死を象徴するタムタム(銅鑼)と昇天或いは天上を意味するチェレスタがこの瞬間に同時に鳴り響くのである! 金子建志氏が「ブラックホール」と呼んだこの瞬間で全ての希望は喪われ、絶望的確信をもって、最後に枠主題が最強奏で演奏されるとそれを嘲笑うかのような鉄槌が下され(初稿ではここで三発目のハンマーの指示があるが現行版では削除されている。 打ちのめされきった「英雄」を打ち倒す最後の鉄槌には、ハンマーさえ不要という事か)、絶望的なコーダに至る。 暗く侘びしい金管による葬送のコラールが静かにやんでいくと、全奏でA音の最強奏による、今度こそ最後のとどめの一撃(それも運命リズムに長音が消えた短3度和音のみが伴われる)が加えられ、露ほどの救いもなく、全てが終わる。

第五編 ラストのA音

果たして、このラストのA音はどんな意味が込められているのだろうか? 音楽家は自分や家族のイニシャルを音楽に託す事がある(例えばバッハのB-A-C-HやショスタコーヴィチのD-S(Es)-C-H(ドイツ語綴字D.Schostakowitschの最初の4文字)など)。 マーラーも例外でなく、未完に終わった第10交響曲は、グロピウスとの不貞によってマーラーを絶望の淵に叩き込んだアルマへの断罪と最終的な赦しによる再生の音楽であるが(詳細はマーラー第10交響曲 曲目解説をご参照)、両端楽章に現れる有名なカタストロフ(破滅)部ではトランペットが最強奏でAの音を絶叫する。 これは前後の事情、音楽の内容からして間違いなくアルマへの愛憎を込めた断罪のメッセージである。 マーラーにこのような傾向があるのならば、イ短調(a-moll)というアルマのAが支配する調性の第6ラストでの、よりによって最強奏のAの音は、アルマを意味していると考えてほぼ間違いあるまい。 しかしそうだとするなら、それは何を意味するのか。 マーラー自身を想定している「英雄」にとどめを刺す、決定的な最後の一撃が妻を象徴するA音によるものだとするなら、彼の下意識には妻に対するそのような強迫観念があったのか。 或いはもっと戦慄すべき、二人だけの秘密が隠されているのか? 先ほども、この曲が普遍的なのか、個人的であるのか、という点について言及したが、もしアルマの宣伝を信じて、第6交響曲を「彼の最も個人的なメッセージ」と解釈するならば、彼は妻アルマに対して余りにも恐しい、余りにも悲劇的な想いを抱いていた事になるのである!!

注2)ソナタ形式
ソナタ形式とは詳しい人には勿論言うまでもないことだが、基本的には呈示部、展開部、再現部からなり、大雑把にいえば、呈示部で2つくらいの主題が呈示され、それらが展開部にて色々と変容していき、再現部でその解決が図られる、といった西洋音楽の大原則ともいうべき形式。 少し規模が大きくなると序奏部やコーダが前後につく。
注3)運命交響曲
筆者は以前より密かに、ベートーヴェンの第5、マーラー第6、チャイコフスキィ第4、ショスタコーヴィチ第10はそれぞれの作曲家の運命観を非常によく表しているのではないかと考えている。 つまりベートーヴェンは運命を闘争の末に超克すべき存在として捉え、チャイコフスキィは運命とは個人の闘争とは全く関係のない次元でその人に勝利も敗北も与える全く気紛れなものとして、同じロシアでも革命後、悪魔的な独裁者スターリンの執拗な干渉で生命の危機を何度も味わったショスタコーヴィチは、運命を更にシニカルな嘲笑的なものとして認識している事がうかがわれる。 それに対し、マーラーは第6において、「運命」を実感というよりは理念(イデー)として、人間が苦闘しつつ挑み、そして必ず敗れ去るもの、として描いたのではないだろうか。
注4)オイフォリオン
ゲーテが後半生をかけて完成させた「ファウスト」の第二部に登場する、ギリシャの古典美の権化たるヘレナとドイツの(当時の)現代知をしょって立つファウストの間に生まれた子供。 明らかにゲーテの友人でギリシア独立戦争に従軍しミソロンギに没したバイロンを模している(バイロンの「マンフレッド」の冒頭は完璧にファウスト冒頭の影響下にあるが、それに霊感を得て作曲されたシューマンの劇音楽とチャイコフスキィの交響曲は本当に素晴らしい名曲で、これも是非弊団にて演奏したいものです)。 オイフォリオンは実人生におけるバイロンのようにひたすら高みを求めて(あるいは破滅に向かって)駆け上り、遂に墜落して消え失せ、悲嘆したヘレナは冥界へと消えていく。
注5)第二楽章スケルツォ
本日はスケルツォ楽章となっているが、マーラーは初演の時から次のアンダンテ楽章とどちらを第二楽章に置くか、散々迷い、最後まで決定的な結論を出せなかったようだが、確かにスケルツォ楽章は冒頭など殆ど第一楽章と同様の出だしであるので、アンダンテを第二楽章に持ってきて、変化を求めたかったのかも知れない。 個人的にはアンダンテを終楽章へのブリッジとする本日の配列の方が好みである。
注6)トーマス・マンと「非政治的人間の考察」
トーマス・マンが第一次大戦に際し、「フリードリヒと大同盟」という評論でやや安易にドイツ帝国に与する旨の発言をしたところ、フランスのロマン・ロランを始め、内外から激しい非難を浴びた。 特に実兄にハインリヒ・マンが「ゾラ論」の中で痛烈に弟を皮肉った事がトーマスの心に烈しい動揺を与え、彼は創作を続行出来なくなってしまった。 失意の中、彼は自分の中のドイツ性を必死に見つめ、数年をかけ、第一次大戦にドイツ「文化」と西欧「文明」の最終戦争を透視する「非政治的人間の考察」なる大著を著すに至った。 第一次大戦後のトーマスは突然のデモクラチスト宣言、ナチスとの烈しい闘争、フルトヴェングラーとの対比における、ドイツ人の為の芸術家はナチスが政権を取ってもドイツにとどまるべきか、という困難な問題、ベートーヴェン第9の否定とまで言われる晩年の謎めいた大作「ファウストゥス博士」の執筆など、アクチュアルな問題を提起し続けているが、これらはマーラー第6とは何の関係も無いことであり、この注を丁寧に読んで下さった方には申し訳ない気持ちでいっぱいです。
注7)イヴァン・イヴァノヴィチ・ソレルチンスキー(1902−1944)
ショスタコーヴィチにも大きな影響を与えた天才音楽学者。 彼が没した時、それを悼んだショスタコーヴィチは不朽の名作「ピアノ三重奏曲第2番」を彼に捧げた。

第三部 エピローグ

目次

高橋 広
純朴無比なアマチュアヴァイオリン奏者。 一部では子供の名前に楠強(グスタフ)とつけようと本気で考えていただの、日本で演奏されたアマオケによるマーラー交響曲第10番完成版の演奏会の全てに出演しているだのといった忌まわしい噂が流れているが、はっきり言って全て事実である。 最も熱愛する作曲家はブルックナーとマーラー(この二人にバルザック、ドストィエーフスキィ、トーマス・マンを加えた5人が自分にとって至高の存在)だが、バッハ、ベートーヴェン、コルンゴルト、シュレーカー、シベリウスといったオーソドックスな作曲家も愛しぬいている。 2008年オスフィルでのマーラー交響曲第6番が自身32回目のマーラー演奏となるが、マーラーのエイジ・シューター(年齢の数だけマーラーを演奏)にはあと一歩届かず、無念の日々を送っている。