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2011/12/25 第10回演奏会は終了しました。1,300名を超えるご来場、ありがとうございました。次回の演奏会は未定です。決まりしだい、お知らせいたします。

第一部 マーラーの生涯

指揮者としてのスタート − そして栄光の頂点へ

グスタフ・マーラーは1860年7月7日、プラハとヴィーンの間にあるイーグラウ近くのカリシュトで生まれた。 両親はその地方のユダヤ人としては珍しく富裕であって、父ベルンハルトは貧しい中から必死の努力でのし上がった立志伝中の人物であった。 カリシュトは豊かな自然に取り巻かれ、また近くにはハプスブルク軍の兵舎があり、彼の家にはそこで吹き鳴らされる軍隊ラッパの音が、鳥の声、風の音、動物の嘶きなどの自然の音と共に何の違和感もなく並列的に聴こえてきたが、それは彼の音楽へのあり方、作品にも深い影響を与えている。

そこで優れた音楽への才能を発揮したグスタフは1875年、当時中央ヨーロッパでは最大の都市であり、音楽を初めとする文化、政治の中心であったヴィーンに赴き、同地の音楽院に入学する。 ヴァーグナーとブルックナーに強い影響を受け、作曲家として身を立てたいという願いをもつが、作曲家としてのスタートにどうしても必要だった奨学金を得るため、1881年、ヴィーン楽友協会の奨学金審議会に最初の本格的な作品「嘆きの歌」を提出するが、当時反ヴァーグナーの牙城であったヴィーンでヴァーグナー風のカンタータが受け入れられる筈もなく、あっさり拒否され、やむなく彼は生活のため、指揮者としてキャリアを積み始める。

オルミュッツ、カッセル、ライプツィヒ、ブタペスト、ハンブルクの歌劇場の指揮者として順調にキャリアを積んでいった彼は作曲のみならず、指揮者としてもずば抜けた才能を現し、「嘆きの歌」を拒否した楽友協会の重鎮ブラームスも彼の指揮する「ドン・ジョヴァンニ」に感動し、「これまでドン・ジョヴァンニの演奏は余りにひどく、それを味わうには総譜を読むしかなかったが、いまや完全な「ドン・ジョヴァンニ」をマーラーの指揮で聴く事が出来る」とまで絶賛した。 そして彼の実力を無視できなくなったハプスブルク帝国の首都ヴィーンの宮廷歌劇場―当時の世界楽壇の頂点であった―も彼に食指を伸ばし、ユダヤ教からカソリックへの改宗を条件に1897年、同歌劇場の指揮者となり、10月には音楽監督に任命された。 正に指揮者としては栄光の頂点にたったのである。

因習の打破 − 闘争こそ我が人生

彼はその栄光に安住することなく、苛烈な改革を推し進めた。 旧態依然とした手法に拘る歌手やスタッフを次々に解雇し、若く才能溢れる人々を登用していき、それによりヴィーン宮廷歌劇場の輝かしい歴史の頂点を築き上げる事となったのである。 更に生活のリズムが安定してきたことにより、夏の休暇に避暑地で作曲に専念する事も可能となり、コンスタントに作品が生み出されるようになった。 それと同時に彼は私生活でも幸福に恵まれた。 ヴィーン随一の美女、才媛である20歳以上も年下のアルマ・シントラーと恋におち、出会って一ヶ月足らずで婚約、そして半年もせぬうちに結婚し、二児を儲けたのである。

そもそもヴィーンの歌劇場の監督というのは極めて困難な役職であり、無数の陰謀や讒言と絶えず闘わねばならず、後年その地位に就いたあのカラヤンでさえ、7年しかこの地位を維持することが出来なかった程である。 しかしマーラーは不屈の闘志で10年にわたりこの地位に君臨してきたのであった。 しかし彼の苛烈な行動に不満を抱く人々も多かった。 また当時ヨーロッパを吹き荒れていた反ユダヤの風潮はヴィーンでも例外ではなかった。 いうまでもない事だが、何もユダヤ人排斥はナチスドイツの専売特許ではなく、ヨーロッパの歴史はそのまま反ユダヤの歴史でもあるといえるほどなのである。 才能あるユダヤ人は、芸術家であれ商人であれ、常に暴力的な反ユダヤの風潮におびえながら活動を行わねばならなかったのである。 そして中央ヨーロッパはその風潮が強い地域でもあった。 そもそもマーラーのようなユダヤ人が宮廷歌劇場の監督になること自体、極めて衝撃的な事件であったろう。 更にいえば、彼の出身地であるボヘミアではユダヤ人は職業選択の自由もなく、小学校を卒業していないユダヤ人は結婚さえ認められていなかったのである。 そういった陰謀に巻き込まれた彼は、1907年、ヴィーン宮廷歌劇場の監督を辞任せざるを得ない状況に追い込まれる。 更に同年長女のマリア・アンナが猩紅熱で夭折、追い討ちをかけるように、彼自身も心臓病の診断を下され、余命いくばくもないことを宣告されるのである。

傷つきしプロメテウス

更に余りにも年が離れすぎた、しかも自らの才能に絶大な自信を持つ妻アルマとの間にも亀裂が入ったマーラーは心身ともに傷つき、休息が必要だったにもかかわらず、経済的な事情、さらにはメンツの問題もあり、無理を承知で新大陸アメリカはニューヨークのメトロポリタン歌劇場の監督の地位を引き受け、ヨーロッパとアメリカを往復する、これまで以上に肉体的に負担のかかる生活を始めた。 しかし彼が監督になった直後に赴任したメトロポリタン歌劇場のイタリア人支配人は、新進のイタリア人指揮者トスカニーニにマーラーの得意演目を指揮させるなど、マーラーの名声とプライドを傷つけるような行動を繰り返した。 しかも妻アルマの不貞までも彼は知ってしまう(第三部にて詳述)。 満身創痍の彼はフロイドの診断を受け、どうにか精神的には持ち直すものの、肉体的には既に限界を超えていた。 1911年2月のニューヨークでの演奏会を終えた彼は、連鎖状球菌性咽喉カタルにかかり、パリでの治療もむなしく、5月18日、ヴィーンにて没した。 51歳になる目前であった。

第二部 マーラーの交響曲の概観

目次

高橋 広
純朴無比なアマチュアヴァイオリン奏者。 一部では子供の名前に楠強(グスタフ)とつけようと本気で考えていただの、日本で演奏されたアマオケによるマーラー交響曲第10番完成版の演奏会の全てに出演しているだのといった忌まわしい噂が流れているが、はっきり言って全て事実である。 最も熱愛する作曲家はブルックナーとマーラー(この二人にバルザック、ドストィエーフスキィ、トーマス・マンを加えた5人が自分にとって至高の存在)だが、バッハ、ベートーヴェン、コルンゴルト、シュレーカー、シベリウスといったオーソドックスな作曲家も愛しぬいている。 2008年オスフィルでのマーラー交響曲第6番が自身32回目のマーラー演奏となるが、マーラーのエイジ・シューター(年齢の数だけマーラーを演奏)にはあと一歩届かず、無念の日々を送っている。