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2011/12/25 第10回演奏会は終了しました。1,300名を超えるご来場、ありがとうございました。次回の演奏会は未定です。決まりしだい、お知らせいたします。

第三部 第10交響曲完成までの経緯

楽園から地獄へ

マーラーは死の前年である1910年の初夏、第10交響曲の作曲を開始した。 かれの最後の完成作にして西洋音楽の最高峰たる前作第9交響曲が1910年4月1日に完成したばかりであった事、また同じ年の9月12日に初演が迫った畢生の大作、第8交響曲「千人の交響曲」の苛烈なリハーサルで多忙を極めていた事から考えるに、彼の灼熱せる創造精神はまさにこの時期絶頂期に達していたといえる。 彼は凄まじい勢いで第10を作曲し始め、上述の過密なスケジュールをやりくりし、ごく短期間の間に(恐らく)第一楽章をほぼ完成させ、第二楽章もパーティツェル(四声部による簡易スコア。 マーラーは通常、まずパーティツェルの形で作曲し音楽の構造を明確にした上で膨大なフルオーケストレーションを行い、更にリハーサルや実演を通して細かい修正を加えていく、という作曲過程をとっていた) をかなりの部分まで作り上げていたと思われる。

しかし、まもなく彼は作曲の続行どころか、精神の崩壊に瀕する、全生涯で最大の危機に襲われる。 7月半ば、彼が第8のリハを一時終え、彼が晩年避暑地兼作曲場所としてこよなく愛したトープラッハに戻ってから2週間ほどあとになって、妻のアルマが神経症の療養のために赴いていたトーベルバートからトープラッハにやってきた。 10年近く前、世紀の恋愛を経て結婚したマーラーとアルマであったが、創造者としての自分への完全な従属を求める20歳以上年上のマーラーへの(心身両面での)不満が鬱積していたアルマはひどいヒステリーに陥っていたのであった。 マーラーは虚勢なのか、或いは妻の悩みに対し不感症であったのか、アルマが当代でずば抜けて魅力的で才知に溢れる女性であることを充分認識しながらも当初アルマに対し不寛容な態度をとっていたが、内心では歳の離れすぎた妻に対する自責の念、また自分を溺愛してくれた薄幸の母親―無条件に自分を愛しそして受け入れてくれた対象―の姿を妻に重ね合わせていたことの自覚などからトープラッハにやってきた妻に対し努めて情愛をこめて接しようとしたのであった。 しかし生来(才能ある男性に対しては)ひどく多情であったアルマはその療養の地、トーベルバートで若く美しくそして才能豊かな建築家ヴァルター・グロピウスに出会い、たちまち不倫の恋に落ち、逢う瀬を重ねていたのである。 更にその相手たるグロピウスは、マーラー研究の第一人者ド・ラ・グランジュの形容に従えば「人妻たちを好んで恋人にし、さらに相手の夫にその情事を暴露して、その家庭に血なまぐさいドラマを引き起こすのもいとわないような人物だった」。 更にコキュ(寝取られ男)たるマーラーが深刻癖の持主で、些細な事でさえも烈しく思い悩み、世界の苦悩を一身に担うような人物であったとくれば、このタイミングでのアルマのトープラッハへの帰還は、強大な爆弾の導火線に火をつけるのと何ら変らぬ危険な行動であった。 実際、アルマとグロピウスは、アルマのトープラッハ行きの後、トープラッハの局留め扱いで熱烈な手紙のやりとりをしていたが、暴露癖のあるグロピウスは「ついうっかり」トープラッハの局留めでなく、マーラー夫妻の自宅に、さらに事もあろうにマーラー本人あてにアルマとの赤裸々な情事を綴った手紙を送りつけたのである。

サロメにして聖母

当然烈火の如く怒り出したマーラーに対し、アルマは自分の不貞を棚に上げ、マーラーの自分に対する無理解をなじり、積りに積った不満を爆発させた。 それによってマーラーは若い妻への烈しい自責の念に、更にはこれまで自分が散々暴君として接してきた自分の妻が、いとも簡単に自分の手からすり抜け、若く魅力的な男のもとに走りさってしまう、という恐怖にも襲われたのである。 彼は前々作「大地の歌」、前作第9交響曲において、第8交響曲までの作品で高らかに奏でていた彼岸の世界での永世と勝利という理念から決別し、死の予感との絶望的な対決、何ものよりも深く愛しぬいた現世から別れねばならぬ恐怖、苦悩、美しい現世への愛惜、憧憬、未練、そして現世を深く愛していればこそそれだけ痛切になる現世への別れを受け入れる深い諦念、来世での平安への必死の祈りを切々と謳いあげ、彼の至高の境地に達していた。 しかしアルマの叱責を受け、アルマを失うかもしれないという明白な可能性を察知した時彼は、闘い、傷ついた自分を受け入れ支えるいわば「聖母」としてのアルマの存在があってはじめて第9の世界観を自分が持ちえたのであった事を悟り、彼は結局妻アルマを喪失することになれば、第9で達した究極的である筈の世界観さえ彼にとって全く無意味なものになりはて、そして彼は最早生きる意味も、思索する意味も、現世を愛する意味も、作曲―彼にとっては生きる事とも同義といえる−する意味もなくなってしまう恐怖をはっきりと理解したのである。 妻アルマがサロメ的「悪女」であることが暴露された途端に彼は「聖母」としての妻アルマが自分の創造の源泉であることを知ってしまうとは何という皮肉か。 数日後のある晩、彼は玄関先で意識を失い、体の芯まで冷え切って倒れていたという。 其の時彼は何を想っていただろうか。更にその数日後、とどめをさすかのように、グロピウスがトープラッハに現れたのである。 それを知ったマーラーは、惑乱を必死に押し殺し、最後の勇気を振り絞り、グロピウスを無理矢理アルマに引き合わさせ、アルマにグロピウスを選ぶか、マーラーを選ぶか決断を迫った。 常により偉大な創造的精神を好むアルマは結局マーラーを選んだ(しかしその後もグロピウスとの密会は続けマーラーの死後はココシュカとの恋愛を経て結局グロピウスと結婚した。 しかしその後まもなく離婚)。 だが、アルマは彼のもとにとどまったものの、精神が崩壊する寸前まで追い詰められた彼は、危機を克服するため、かなり懐疑の念を抱きつつも精神分析の診療を受ける必要を自覚した。 散々躊躇し、数度予約をキャンセルした後、それでも藁にもすがる思いで、南チロルのトープラッハから電車を乗り継ぎ、ヨーロッパ大陸を南北に縦断し(当時からすればかなりの旅行であった筈だ)、オランダはライデンに避暑に来ていたジークムント・フロイトのもとに診察を受けに旅立ったのであった。 診療の内容、診断結果の詳細については厳密な記録が残っていないが(数種残っているこの会見についての記録は完全に整合性のとれたものになってはいない)、フロイトは、マーラーが母マリーのイメージを妻アルマ・マリアに投影しようとしている点を指摘し、マーラーもフロイトの診療にある程度満足して帰途についた。

担うべきを担いきり・・・

フロイトとのたった一回の会見によって彼が生涯最大のアイデンティティー崩壊の危機を完全に乗り越えたとは到底思えないが、それでも何とか創作意欲を復活させた彼は、アルマの不貞という癒しがたい心の傷の刻印を生々しく残した、第10の第三楽章以降を(ひとまずは)パーティツェルの形で作曲し続けた。 その傷が具体的にどのような形で曲に投影されているかは楽曲解説に譲るが、芸術家の性とはいえ、生涯最大の危機をかくも赤裸々にその創作に反映させた時、彼の内面を吹き荒れていた嵐の凄惨さはいかばかりであったであろうか。 マーラーの娘で彫刻家となったアンナ・マーラーはそれでも「もし、今、わたしの父がこの世に戻ってきたとして、父がもう一度生きたいと願うのがその最後の数ヶ月でないと誰にいえるのでしょう?」と言ったそうである。 さすがにマーラーの娘、炯眼というべきである。 真に創造的な芸術家は、どれほど悲惨な、どれほど苦悩と苦痛に満ちた体験であっても、それがその最も深遠な作品を産み出すためにはどうしても担わねばならぬものであるならば、結局それを選択し、全身全霊をかけてそれに挑まずにはおれないのである!

しかし神は彼に第10完成までの時日を許しはしなかった。 第10のパーティツェルとスケッチで全体構造のほぼ9割程度まで作曲を進めていた彼は、翌年の5月、遂に力尽き未完成の草稿を残しこの世を去る。 因みに彼が指揮者として最後に行った演奏会ではブゾーニの「悲歌的子守唄−母親の柩に寄せる男の子守唄」を取り上げている。 母親のイメージを追い続けた男が最後に選んだ曲目として、なんとも暗示的ではないか。

遺されたスケッチと復元の試み

第10交響曲のスケッチがかなりの部分にわたり残されている、という事実は、彼の死の直後から一部には知られていた。 しかし全曲復元の可能性が公然と囁かれ始めたのは、1924年、マーラーの寡婦たるアルマによって女婿クルシェネク編曲による第一、三楽章のスコアと自筆草稿の一部のファクシミリが限定出版されてからである。 それにより、人々は第10交響曲が・アダーヂォ、・第一スケルツォ、・プルガトリオ(煉獄)、・第二スケルツォ、・フィナーレという彼一流のシンメトリカルな5楽章形式で構想された巨大な構成となっていること、そして当初噂されていたよりも遥かに全体像の再構築の可能性が高い事を知ったのであった。 が、現実はそう簡単に事が運ばず、1942年アメリカのマーラー協会から切り札として打診を受けたショスタコーヴィチは、自分はマーラーを敬愛してはいるが、彼の精神世界や個人的な様式に深く入り込むことが不可能である、として其の申し出を拒絶した。 更に誰もが理想の補作完成者と目していたマーラーの高弟アルノルト・シェーンベルクは、1949年、アルマの第10補作完成の打診を断った。 それでもアメリカのカーペンター、ドイツのヴォルシュレーガー、イギリスのフィーラーらがファクシミリを基に補作への道を模索し始めていたが、最も整った第10完成版は実に意外なきっかけから生まれる事となった。

パウロならぬアルマの回心

BBC放送がマーラー生誕百年を記念する番組を作成する際に、同放送局OBで音楽学者のデリック・クックは、第10を何らか音にした形で聴取者に提供したいと考え補作を始めたが、未発表のスケッチを入手出来た事もあり、目論見に相違しほんの数分ぶんを除けば殆ど全曲を演奏出来るところまで復元する事に成功、協力者の一人だったゴルトシュミットの指揮で1960年12月、遂に初演されたのである(第一稿)。 然しアルマは、マーラーを最も敬愛し、かつ当代最も才能の豊かなシェーンベルクでさえ為しえなかった補作を一介の音楽学者風情に出来る筈がないという確信に加え、未発表スケッチを使用していた事を知って激怒し、演奏差し止めの通告を行った。 一時は作曲家を目指し、マーラーの音楽への理解もひとかたならぬものがあったアルマとしてみれば、第10が彼女に対する告発を意味する音楽であることは充分に理解していたわけであるし、回想録や自筆ファクシミリ出版に際し、巧妙に自分に対する非難にあたりそうな箇所を削除し続けた彼女が、自分の検閲を経ない「未発表」資料の使用に激怒したのはある意味大変尤もな話ではある。 が、バーンズらの粘り強い仲介でその放送録音を聴いてから、アルマは態度を一変させクック版を容認した。 全曲を聴き終わった後、アルマは終楽章をもう一度聴きたいと頼み、それが終わると目に涙をため、「Wunderbar(素晴らしい)」と優しく呟いた、という。 クックは先述のド・ラ・グランジュからの更なる未発表スケッチの提供もあり、先にはほんの僅かだけ欠けていた部分も完成させ、1964年、同じゴルトシュミットの指揮により第二稿が初演された。 其の後もクックはゴルトシュミットの他、作曲家のマシューズ兄弟らの協力も得て遂に1976年、集大成ともいうべき第三稿第一版を完成し出版(つまり第一稿、第二稿は未出版)、その直後、使命を果たし終えたかのように他界した。 マシューズ兄弟らは最新資料の発見や資料の読み直しを行い、更に禁欲的な復元方法を厳守したクックの姿勢を一部変更しやや積極的に大規模なオーケストレーションを施した第三稿第二版を1989年に出版し、現在に至っている。 現状ほぼ全曲復元の決定版ともいうべきクック版の他、異様に地味なフィーラー版、破天荒なカーペンター版、更にはクック版に基づき更にマシューズ兄弟的指向を更に推し進めマーラーらしい色彩のオーケストレーションを施したレモ・マゼッティJr版、殆どプロコフィエフやショスタコーヴィチにしか聴こえないバルシャイ版等が存在し、それぞれ録音も存在している。

版の呼称について

尚、クック版の稿の呼称については、本プログラムの巻頭論文を特別に寄稿して下さった、日本での紛れもなく最高のマーラー第10の権威である金子建志先生のご高著「こだわり派のための名曲徹底分析 マーラーの交響曲」(現在第二巻まで刊行。 音楽之友社刊。 マーラーを愛する人は絶対に読まなければならない名著です)に準拠しているものであり、飽迄も便宜的な分類である。 ペーター・ルツィカや小石忠男氏はほぼ金子先生と同様に分類し、長木誠司氏、森泰彦氏は64年版を第一稿、76年版を第二稿、(長木氏のみ)89年版を第三稿と呼んでいる。 従って資料をお読みになる際は何年の版かで判断されるとよいと思われる。

第四部 第10交響曲内容解説

目次

高橋 広
純朴無比なアマチュアヴァイオリン奏者。 一部では子供の名前に楠強(グスタフ)とつけようと本気で考えていただの、日本で演奏されたアマオケによるマーラー交響曲第10番完成版の演奏会の全てに出演しているだのといった忌まわしい噂が流れているが、はっきり言って全て事実である。 最も熱愛する作曲家はブルックナーとマーラー(この二人にバルザック、ドストィエーフスキィ、トーマス・マンを加えた5人が自分にとって至高の存在)だが、バッハ、ベートーヴェン、コルンゴルト、シュレーカー、シベリウスといったオーソドックスな作曲家も愛しぬいている。 2008年オスフィルでのマーラー交響曲第6番が自身32回目のマーラー演奏となるが、マーラーのエイジ・シューター(年齢の数だけマーラーを演奏)にはあと一歩届かず、無念の日々を送っている。