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2011/12/25 第10回演奏会は終了しました。1,300名を超えるご来場、ありがとうございました。次回の演奏会は未定です。決まりしだい、お知らせいたします。

第四部 第10交響曲内容解説

第一楽章 アダーヂォ

マーラー自身による譜面でもほぼ完成していた唯一の楽章であるだけに、最美の終楽章と共に最も密度の濃い音楽である。 かなり緩やかなソナタ形式で書かれている。 冒頭、提示部中央、そして提示部の最後に三度出てくるヴィオラによる瞑想的なモノローグは非常に謎めいた旋律であるが、この本当の意味は最終楽章後半で明らかになる。 主部ではマーラーらしいオクターヴ跳躍を伴った主題―彼の前作第9のラストで到達した世界を想起させる―とこの期に及んでなお彼を嘲弄しようとするかのような邪悪な副主題が交錯する。 展開部、再現部は型通りの展開というよりは走馬灯の如くに色々な素材が明滅するが、冒頭を想わせる、 しかし高音のヴァイオリンで奏でられるために非常に寒々とした虚無的な旋律が最弱音で続くと突如としてオーケストラ全奏が炸裂する。 多くの人々から「カタストロフ(破滅)」部と呼ばれる箇所である。 何かを断罪するかのような凄惨な音楽が続く中でトランペットがアルマを表す「A(ラ)」の音を絶叫する中、嬰ハ音の9つの音が同時に鳴り響く(カタストロフ和音)。 この戦慄すべきシーンは終楽章で更により明確に本当の姿を現わすが、この楽章では全面的な解決、というのか結論が下されないまま、ひとまずは鎮まっていき、その後第9の第四楽章終結部の、未練と慰め、憧憬と諦念に満ちた旋律に似た美しい調べが続く。 そしてひそやかに、満ち足りた余韻を残し音楽は消えてゆく。

第二楽章 スケルツォ

形式的にはABABAに近いが、Aの部分はまったく法則性のない変拍子で一貫する極限的スケルツォである。 今をときめくサイモン・ラトル、リッカルド・シャイー、角田鋼亮などの第10を得意とする若きマエストロたちは異口同音に「『春の祭典(一昔前まで難曲の代名詞だったストラヴィンスキィの曲)』より指揮するのが余程難しい」と告白しているほど。 冒頭から6拍子、4拍子、5拍子、3拍子、2拍子が目まぐるしく移り変わり、演奏会場にいるもの全てに片時も安らぎを与えない。 嘲笑の如き音楽である。Bのトリオ部での多少田舎くさい雰囲気が主部との対比をより鮮明なものとしている。 第5のスケルツォ、第9のレントラーやロンド・ブルレスケの残照が確かに感じられる。 曲は最後にスケルツォのテンポに回帰するや漸次加速し、狂騒の中、華やかに結ばれる。 決して牧歌的な音楽ではないものの、音楽の内容として極限まで追い詰められ狂気そのものといった趣のある第四楽章のスケルツォ・に比べると、いらいらした感じはあるものの躁というのかやや陽気な音楽となっている。

第三楽章 プルガトリオ(煉獄)

マーラーのものした全交響曲の中で最短の楽章であり、しかも大変にシンプルなABAの三部形式をとっているが、内容的には極めて重要な意味をもった楽章である。 特に後半に現れる重要なモティーフ(サロメ主題、救済の主題)がこの楽章から始まっており、この曲の「謎解き」をする上で絶対に避けられない。 また第三部に書いたようにアルマの不貞を知ったこの楽章から、自筆譜への書き込みが始まっている点も軽視できない。 自筆譜の第三楽章の表紙の上半分には当初「プルガトリオ(煉獄)あるいはインフェルノ(地獄)」と書かれ、後にインフェルノの文字が消されているが、なんと下半分はちぎりとられていて現存しない。 第三部をお読みになった皆様にはお分かりと思うが、恐らくはこの部分にマーラーはアルマを断罪するかのような烈しい文章を連ねていたのではないか。 そしてそれをアルマが破り捨てたと考えるのは決してうがった考え方ではあるまい。

冒頭は初期の歌曲「浮世の生活」と殆ど同様に始まるのも曲の内容を象徴している。 官僚的といおうか、不気味に無表情な伴奏音型にのって、いらいらしたような、皮肉な旋律が奏でられるが、B部に至るや傲然たる低弦に攻め立てられるような攻撃的な音楽となる。 その中から4度現れる救済主題―これは彼が最も愛した楽劇「トリスタンとイゾルデ」に出てくる愛の死のライトモティーフにインスパイアされており、それによってこの動機の引用は救済、それも願わくは愛による救済であることが明瞭となる−終楽章で決定的な意味をもって再び立ち現れるが、ここでも既にそれぞれ「死! 変容!」や「憐れみたまえ! おお神よ、おお神よ、何故我を見捨てたもうか!」、「御心のままになしたまえ!」といったマタイによる福音書からの引用が書き込まれ、彼にとって、そしてこの曲にとって大変に重大な意味をもつのは明白である。 再びA部に戻ると前半とまったく同じ事を繰り返した後で、彼にあっては死を象徴する銅鑼の音により、不吉な確信に満ちて終わる。

第四楽章 スケルツォ

第二楽章と違い、拍子は安定しているものの精神的な内容としては正に究極のスケルツォともいうべき苛烈な音楽である。 自筆譜表紙には「悪魔が私を踊りへいざなう。狂気よ、私をとらえよ、呪われた私を。私が存在していることを忘れさせ、私の生を終わらせるように、私を打ち砕いてくれ!」という痛ましくも恐ろしい書き込みがある。

冒頭からしてオクターヴ下降と叩きつけるような音型が楽章のキャラクターをあからさまに示している。 絶望に駆られた敗北覚悟の死闘の如きスケルツォ部と、維納風の優雅なワルツ(但し「パロディー風に」といった指示があるようにグロテスクに変容させられたものだが)に彩られたトリオ部というグロテスクなコントラストをもつ両者が複雑に入り組んでいる。 音楽は常に何かに追い立てられるかのような焦燥感に満ち満ち、ある時は高揚に向かいそうになった時、ある時はワルツに酔っている時、破滅的な衝撃音で非情な悪夢に引き戻される。 最後に打ちのめされて後、音楽は次第に下降してゆき、不気味な断片が切れ切れに演奏されるうち、響きの消された軍楽太鼓の一撃で突如衝撃的な終わりを遂げる。

マーラーは第四楽章自筆譜最終頁に「この意味はお前(アルマ)だけが知っている」と書いている。 アルマはその説明として、この異様な響きの楽器はマーラーが紐育の旅室から死の予感と共に嗚咽しながら見ていた、殉職した消防士の葬列で鳴らされていた太鼓の音に想を得ており、それをもって彼は上記の如く書き込んだ、としているが、これまでの経緯を見てきた人間にとっては「この意味」が「消防士の殉職」ではなく(多少はそれもあるかもしれないが)、「アルマの裏切りがマーラーに与えた衝撃」であることは明々白々であろう。

第五楽章 フィナーレ

第四楽章からアタッカ(休みなし)で再度軍楽太鼓の一撃が加えられると、そこからは音楽史上ほとんど類例のない、異様な世界が広がる。 極度の緊張感の中、チューバが上昇音型を吹きかける度に軍楽太鼓の一撃で中断を強制される。 それは完全に荒涼たる死の世界のヴィジョンそのものであろう。 それでもチューバのメロディーがホルンに引き取られ僅かずつ通常の音楽の体をなしてきたかと思われる正にそのとき、思いがけず現れるのが、余りにも美しすぎるフルートの旋律である。 かつてかくも切なく美しい旋律が、これ程までに恐怖に満ちた不気味な世界と直結して歌われた事があっただろうか。 この旋律は第三楽章で表れた「救済主題」を核としているが、冒頭の音型はA(ラ)からG(ソ)に移るものであり、これはアルマ(A)からグスタフ(・マーラー)(G)へと受け継がれる「愛のテーマ」でもあるだろう。 野暮を承知で譬えるならば、この世で叶わなかった、口にするだけで傷ついてしまうくらい繊細な美しい思い出の清らかな回想、とでも言うべきか。 その旋律は弦楽器に受け継がれ次第に昂揚し、その回想がついに口の端をついて出ようかという刹那、運命の軍楽太鼓の鉄槌が再度振り下ろされ、序奏部はそのまま打ち拉がれていってしまう。 この軍楽太鼓は第四楽章の最後から都合12発打ち込まれるが、さすがのマーラーも13という数にだけは出来なかったのであろう。

長大な序奏が終わると極端に短い主部が始まる。 これは先程から何度も言及している「救済主題」をアイロニカルにパロディー化したものであり、彼にとってどうしても必要な救済さえ、いとも簡単に嘲笑の対象になってしまう無惨さが強烈に表現されている。 この主部の狂乱が数分盛り上がると、突如として第一楽章のカタストロフが回帰する。 そして又もトランペットにより、今度はサロメの音型に装飾され、マーラーを滅ぼす「悪」としてのアルマの主題である事を遂に露わにした、Aの絶叫―しかも今度は強烈なG音を伴っているが、それはグスタフのGではなく、愛しいアルマを奪ったグロピウスのGではなかろうか―が絶頂部に達した時、驚くべきことにAの絶叫に対峙するかのように第一楽章冒頭主題がホルンによって朗々と奏される。 ホルンによって奏される事により、この主題こそ、実はヴァーグナーの楽劇「ニーベルンクの指環」の主人公にして、ドイツ最大の英雄たるジークフリートの主題、そしてそれはマーラーそのものを表す主題であった事が明らかになるのである!  つまりここは、全曲の隠された主題である「悪女」アルマと「英雄」マーラーとの烈しい争闘、対決を意味する、全曲の頂点であったのだ。

この劇的な対峙のあと、音楽はカタストロフによる浄化を経て緩やかに美しいアダーヂォへと還ってゆき、先のフルートによる主題に匹敵する、信じ難い程の美の瞬間が続く。 清らかな回想がここでも繰り返されるが、ヴィオラ・チェロの強奏を呼び水として、マーラーは突如それまで口に出すのもはばかっていた最も美しいものが何であったかを声高に語りだす。 それは熾烈な弦楽合奏を主体とした、マーラー生涯に最後の絶唱となる。たとえ自分は死なねばならぬ身であろうとも、現世を愛する、生を愛する、しかし何より妻アルマを愛するのだ、と。 それは最早繊細な回想などではなく、異様なまでの執着、執念とさえ言える。 全てを赦そう。 そしてアルマの愛を再び獲得し、自分はかくも美しくかくも素晴らしい生を享受するのだ。 彼は現世を肯定し容認し、不貞を犯した妻アルマを容認し、凄まじい気力をもって生を望まんと欲しているのだ。 彼の第9交響曲が、たとえ最後の最後まで現世を志向しためらっていたにせよ、最終的には現世から去っていかざるを得ない事実の容認と諦念であったのに対し、第10交響曲は、更に深い絶望の中から、現世・生・アルマの愛を欣求する血を吐くような祈りであり、そして愛と容認と肯定を謳いあげる讃歌であるのではないか。 それを示すかのように、一音一音慈しんでいた弦楽器が次第に静まっていった沈黙の中から、劇的な弦のグリッサンドによる13度(!)の跳躍―自筆譜のこの部分は2種類のスケッチが残されているのだが、なんとその両者に全く同じ、そして全編の中でも最も感動的な書き込み「お前のために生き! お前のために死ぬ! アルムシ(アルマの愛称)!」があり、正にこのグリッサンド跳躍の部分に「アルムシ!」が書かれている―が行われた後、最後に救済の主題が奏され、この深遠な音楽は穏やかに虚空へと消えていく。 この13度の跳躍は何を意味するのか。 肯定的エネルギーに貫かれたマーラーの気力の横溢であるのか。 それとも、先ほどのフルートソロにおけるA(アルマ)→G(グスタフ)の「愛のテーマ」が7度の跳躍であり、このラストが「愛のテーマ」のヴァリエーションであるとするなら、7度の更に1オクターヴ上の15度の跳躍となるべきところであるが、それが15度の一歩手前の(しかも極めて不吉な)13度の跳躍で終わっているということは、それだけの魂魄を込めてもなお、彼の目前でその手からアルマがすり抜け、マーラーは空しく虚空をつかまざるを得ない、という痛切な無念さを表しているのか。 その結論は聴く者の判断に委ねられているのである。

終わりに

目次

高橋 広
純朴無比なアマチュアヴァイオリン奏者。 一部では子供の名前に楠強(グスタフ)とつけようと本気で考えていただの、日本で演奏されたアマオケによるマーラー交響曲第10番完成版の演奏会の全てに出演しているだのといった忌まわしい噂が流れているが、はっきり言って全て事実である。 最も熱愛する作曲家はブルックナーとマーラー(この二人にバルザック、ドストィエーフスキィ、トーマス・マンを加えた5人が自分にとって至高の存在)だが、バッハ、ベートーヴェン、コルンゴルト、シュレーカー、シベリウスといったオーソドックスな作曲家も愛しぬいている。 2008年オスフィルでのマーラー交響曲第6番が自身32回目のマーラー演奏となるが、マーラーのエイジ・シューター(年齢の数だけマーラーを演奏)にはあと一歩届かず、無念の日々を送っている。