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2011/12/25 第10回演奏会は終了しました。1,300名を超えるご来場、ありがとうございました。次回の演奏会は未定です。決まりしだい、お知らせいたします。

「音楽はライヴが面白い ♯3」

毎年楽しみにしている「アジア・オーケストラ・ウィーク」だが、今年の参加団体はわずか3団体で、しかも来阪するのはKBS響のみということだ。 KBS響といえば韓国の名門オーケストラであり、曲目にショスタコーヴィチ11番を選んだところにも自信の程をうかがわせる。 普通に名演を繰り広げるに違いないが、アジア・オーケストラ・ウィークならではの面白さは感じられないだろうな、と正直がっかりした。

アジア・オーケストラ・ウィークは、アジアやオセアニア(本来なら「アジア太平洋・オーケストラ・ウィーク」と命名すべきだと思うが)の様々なオーケストラが来日して日替わりで演奏をする催しである(会は東京と大阪)。 オーケストラのレヴェルも様々で(中には吐き気を催すほど下手なオーケストラもあったが)、そうした様々なオーケストラの違いを生で楽しめるという実に面白い音楽祭だ。 ヴェトナムの楽団がアオザイをあしらったステージ衣装を着ていたり、インドネシアの楽団に黒い布を頭に巻いた女性奏者がいたり、など、ふとしたところに民族性を感じさせるところも楽しい。 韓国の女性奏者が例外なくズボン姿である点も興味深いところだ。

最も印象に残っているのはなんといってもヴェトナム国立響(2004年)。 ショスタコーヴィチの5番をプログラミングしたのは団のレヴェルからすると明らかに背伸びであるが、それを自覚した上で一丸となって必死に演奏することで、技術のおぼつかなさを克服して気迫ある音楽を生み出していた。 前半でショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲を弾いた名手ブン・コン・ズイが、交響曲ではコンサートマスターとして団員をリードしていた姿も頼もしい。 本名徹次の愛情あふれる指揮姿も印象的で、そうした演奏者たちの音楽への献身的な姿勢が感動を呼んだ。 客席も含めて、その場に居合わせた者すべてが一丸となって音楽の喜びを追い求める。 演奏の原点を再認識させられるような嬉しい演奏会であった。

高度な演奏でうならされたのがセバスチャン・ラング・レッシング指揮のタスマニア響(2005年)。 ベートーベンのエロイカを演奏したのだが、古楽器風の鋭い奏法を取り入れ、立体的で、一瞬たりとも緊張感が緩むことのない推進力のある名演を繰り広げた。 今でもこの演奏がベートーベンの理想的演奏の一つとして記憶に残っている。 それにしても、オーストラリアのタスマニア島にこのような素晴らしいオーケストラが存在するとは、大変な驚きであった。

また、いずれの公演にも御当地作曲家の作品と、やはり御当地出身のソリストを起用しての協奏曲が必ずプログラミングされているというのもまた大きな魅力だ。

御当地作曲家の作品では、民族色豊かな作品が上演されることが多い。 中でも異色だったのが、インドネシアのヌサンタラ響(2005年)が演奏したガムラン音楽とバリ舞踊(!)の協奏曲。 シンフォニーホールに金属音が反響し、豪奢に着飾ったダンサーが登場して客席を睨みつける様には度胆を抜かれた。 その一方で、民族色は薄いものの極めて上質な作品が演奏されることもある。 最大の収穫はリルバーンの存在を知ることができたことだ(ニュージーランド響。2003年)。 ニュージーランド出身のダグラス・リルバーン(1915-2001)はヴォーン・ウィリアムズに師事したというだけあって非常にしなやかな音楽運びをする見事な曲を書いている。 しかしながら、どこか乾いた空気感と鬼気迫る神秘性があり、師の亜流では決してない。 もっと世界で評価されるべき作曲家だ。

この音楽祭で来阪したアジア若いのソリストたちはいずれも魅力的だったが、中でも韓国の天才少女ソン・ヨルムは別格だった(2003年。スウォン・フィルとラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を演奏)。 彼女のピアノは、機械的なまでに冷たい音色でありながら、音楽の背後に熱い感情がうねっている。 刃物のように鋭く、恐怖さえ感じさせる演奏は、ゾクゾクするほど壮絶だ。 ヨルムは3年後、関西フィルのソリストとして再び来阪し、プロコフィエフの第3協奏曲を演奏した。 それ以来僕はこの曲のCDを買いあさっているのだが、ヨルムを聴いた興奮を追体験できるようなCDにはいまだにめぐり合っていない。

さて、今年唯一の大阪でのコンサートは、前述のようにKBS響だ(チャン・ユンスン指揮。2007年10月3日・シンフォニーホール)。 果たして、演奏は期待をはるかに上回る大名演だった。 いやはや、「普通に名演を繰り広げるに違いない」とは何とも失礼な予断をしてしまったものだ。 「アリラン」の旋律を取り入れたファンタジーや、俊英キム・ソヌクが演奏したショパンのふくよかな響きも良かったが、なんといっても圧巻はショスタコーヴィチ11番だ。 僕はこの曲が好きで、ゲルギエフはじめ錚々たる指揮者たちの演奏でライヴを聞いてきたが、この日の演奏は疑いなくベストの名演。 うまいというレヴェルではない。 それぞれの楽器が、音楽が求める音を表現しきっているのだ。 それは時に悲鳴のように聞こえ、時に挽歌のようにも聞こえる。 オーケストラが肉声を発していたのだ。 考えてみれば、韓国の楽員の多くは軍事独裁政権下で青春を過ごしたのであろうし、ひょっとすると、機動隊と戦った経験を持つ者や、親友が焼身自殺した者さえいるかもしれない。 ショスタコーヴィチが革命のストーリーを隠れ蓑にして告発した恐怖政治の不条理は、楽員たちにとって絵空事ではなく、まさに自らの実体験であるはずだ。 この日のショスタコーヴィチに迫真の説得力があったのは、楽員たち自身の悲鳴や嘆きや怒りが音となっていたからではないだろうか。 アジア・オーケストラ・ウィークでしか聴けない音を、今年も間違いなく聴くことができた。

遠藤 啓輔
1973年、愛知県生まれ。 現在、奈良市在住。 オストメール・フィルハーモニカー管弦楽団、京都フィロムジカ管弦楽団トランペット奏者として活動する一方で、全国のコンサート会場に聴衆として出没する。 熱愛する作曲家はブルックナーとシベリウス。 自慢は、ブルックナー、シベリウス、マーラー、ショスタコーヴィチのすべての交響曲をライヴで聴いたこと。他の作曲家については言わずもがな。