「音楽はライヴが面白い ♯4」
いよいよ僕たちのマーラー6番の演奏会が近づいてきた。 マーラー6番はライヴで聴く面白さが詰まった作品だ。 ぜひ聴きに来ていただきたい。
そもそも、僕がマーラー作品でとりわけ6番が好きになったのも、高校時代に聴いたライヴのおかげだ(小泉和裕指揮名古屋フィル。1990年10月3日。名古屋市民会館)。 以来、この曲を実に10回ライヴで聴いたが、そのいずれも異なった魅力を発していた。 マーラーの音楽はやたらと細かい表情指定とは裏腹に、奏者の創意工夫に任された部分も多く、聴きに行けば聴きに行っただけ異なる表現に出会うことが出来る。 とりわけ6番はその筆頭だ。
6番で奏者の創意工夫を試されるのは何と言ってもフィナーレで2回叩かれるハンマーであろう。 このハンマーには聴く者の心臓に突き刺さるような圧倒的な力が求められるが、その一方で「金属的でない音」と指定されているため、録音ではなかなか聞き取りにくい。 視覚的効果も加味されるライヴでこそ生きてくる楽器である。 そもそも楽器とは言いがたいこのハンマーという「楽器」は、奏者が自ら製作するしかないので、聴衆は演奏会ごとに異なるハンマーの違いを楽しむことができる。 積み上げた木の板を工事現場で使う木槌で叩くことが多いが、岩井一也指揮瀬田フィルの演奏は異色だった(2004年9月23日。 栗東芸術文化会館「さきら」)。 この日の演奏では、舞台の左右袖に木箱が置かれ、それをハンマーで叩き壊したのだ。 マーラー6番のハンマーは、故ベルティーニが金子建志に「ギロチン、あるいは原爆のイメージ」と語ったように、圧倒的な破壊者という意味を持っている(金子『マーラーの交響曲』p.178)。 瀬田フィルは、それを忠実に視覚化したと言えよう。 感動したのは、1回目で叩き壊す木箱と2回目で叩き壊す木箱の大きさが異なっており、その比率がちょうど3対2になっていたこと。 マーラーは1回目のハンマーにfff、2回目のハンマーにffと音量指定をしているが、その違いを意識してのことに疑いない。 この際、結果として音量がどうなったかということはどうでもよい。 マーラーの指示を残らず忠実に再現しようという奏者たちの姿勢こそ重要なのだ。 この瀬田フィルは、医師を本業とする指揮者岩井とともにマーラーを演奏するために結成されたオーケストラとのことであり、筋金入りのマーレリアンたちに違いない。 岩井は「熱愛するのはマーラー」と自認するだけあって指揮姿も生み出される音楽もマーラーの蘇りではないかと思うほど見事なものだった。 そうしたマーラーの使徒たちのマーラーへの熱い思いが、このハンマーにも反映されていたのである。
また、「ハンマー」ではなく「ハンマー奏者」に注目するのもまた面白い。 オーケストラには首席奏者を2人擁する団体が多いが、この曲はティンパニが2セット必要なので、首席打楽器奏者は2人ともティンパニを担当してしまう。 従って、普段は目立たないが実は大変有能である打楽器奏者が、隠していた爪を剥き出しにしてハンマーを担当することになる。 僕は大阪フィルで2回この曲を聴いたが、ハンマーを叩いたのはいずれも坂上弘志だった。 坂上は普段はスネアドラムを叩いているが、どのような打楽器でもそつなくこなす器用な人で、たまにティンパニを担当すると首席奏者に優るとも劣らぬ見事な演奏を披露する恐るべき才能の持ち主だ。 どこのオーケストラでも、ハンマーを担当するのは坂上のような隠れた名手なのだろうと想像する。 別の見方をすれば、見事な「ハンマー奏者」を擁する団は層の厚いオーケストラであると言うことができるかもしれない。
特殊打楽器としては他に、各楽章に登場するカウベルも重要だ。 基本的に舞台裏で演奏されるが、遠近感を演出するためにアダージョ楽章では舞台上でも演奏される。 そして、舞台上で演奏する際は視覚効果も考えて演奏しなければならない。 この点を見事に表現していたのは田中良和指揮東海学生オーケストラ連盟(1991年8月29日。愛知勤労会館)。 雛壇最上段の左右に立った2人の打楽器奏者が両手に大きなカウベルを持ち、合計4個のカウベルを乱れ打ったのだ。 文字通り四方からカウベルが聞こえてくることで、四方に牛が群れている、という音風景を視覚的にも表現していた。
もちろん、創意工夫が求められるのは打楽器だけではない。 高関健指揮名古屋フィル(1999年3月10日。名古屋市民会館)は、弦楽器の配置の工夫によってこの曲の魅力を引き出した演奏だった。 高関はたとえ現代音楽であっても弦楽器を古典配置にする指揮者であり、マーラー6番も当然ながら古典配置で演奏した。 ヴァイオリンを両翼に分ける古典配置による演奏はもはや珍しくない。 しかし高関はこの日、ヴァイオリンを両翼に配するだけでなく、コントラバスを舞台奥に横一列に並べるという徹底した古典配置で演奏したのだ。 冒頭からコントラバスの力強い連打が一列横隊で客席に襲いかかり、一瞬にして聴衆の心を鷲づかみにしてしまった。 コントラバスを横一列に並べると、ズレやすくなるという大きなリスクを伴う。 日頃からこの配置で演奏している高関と、マーラーに抜群の相性を示す名古屋フィルが組んだからこそ実現し得た稀有な名演であろう。
ここまで演奏者による創意工夫に着目して書いてきたが、この曲をライヴで聴く最大の魅力はもちろん、マーラーにしか描けない壮絶な魂の叫びを肉声で聞くことである。 その点で今でも圧倒的に印象に残っているのが外山雄三指揮大阪フィルの演奏だ(2002年9月19日。フェスティヴァル・ホール)。 これは、厳格にテンポを維持して淡々と進められた、実に冷たい演奏であった。 動きの少ない外山の指揮姿とフェスティヴァル・ホールのデッドな音響がその冷たさに拍車をかける。 この曲が、古典的4楽章形式という堅牢で冷徹な枠を持っているということを、否応無く思い知らされた。 しかしながら、その枠の中ではマーラーの魂が熱く煮えたぎっており、そして、形式という冷たい檻の隙間から赤い炎が噴き出すのが見えるようであった。 「暴発するマーラーの魂の炎を、古典的形式によってフリーズ・ドライした」とでも表現できようか。 パワー全開のマーラー演奏よりも、はるかに凄みがあった。 僕は、6番はマーラー作品の中でも古典的形式美を上手く取り入れた異色の傑作だと捉えているが、その考えを持つに至ったのはこの外山の演奏を聴いたからにほかならない。 良いライヴを聴くことは、その作品の魅力を知る最良の方法である。
さて、僕たちが演奏するマーラー6番はどのようなものになるだろうか。 演奏する僕にもわからない。 しかし、これだけは確約できる。 すべての聴衆に、ライヴでしか体感できない興奮をお届けできる、と。
- 遠藤 啓輔
- 1973年、愛知県生まれ。 現在、奈良市在住。 オストメール・フィルハーモニカー管弦楽団、京都フィロムジカ管弦楽団トランペット奏者として活動する一方で、全国のコンサート会場に聴衆として出没する。 熱愛する作曲家はブルックナーとシベリウス。 自慢は、ブルックナー、シベリウス、マーラー、ショスタコーヴィチのすべての交響曲をライヴで聴いたこと。他の作曲家については言わずもがな。