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2011/12/25 第10回演奏会は終了しました。1,300名を超えるご来場、ありがとうございました。次回の演奏会は未定です。決まりしだい、お知らせいたします。

「音楽はライヴが面白い ♯5」

昨年は大阪フィル創立60周年ということで、音楽監督の大植英次によるベートーベン交響曲ツィクルスという大イヴェントが開催された。 「大植/大フィル」の充実ぶりを知る試金石とも言える企画だが、僕はこのツィクルスで注目したことが別にある。 それは、「リピートをするかどうか」ということだ。 以前、大植がベートーベンのエロイカを演奏したとき、リピートを遵守していたのに興味を覚えた。 そこで終演後のサイン会のとき、「僕はリピートが大好きなのでリピートしてもらえて嬉しかったです」と感想を述べたところ、大植は「楽譜にちゃんと書いてありますからね。 守らないとベートーベンに怒られちゃいますよ」と、前任者の朝比奈隆に似たことを言っていた。 今回のツィクルスでもこの言は守られるのか。 特に、このツィクルスは「番号順」に徹底的にこだわった企画であるため、第2夜は「4番→5番→(休憩)→6番」という殺人的なプログラミングになっているが、それでもリピート遵守の姿勢を貫いてくれるのか? 古典派から前期ロマン派の交響曲を演奏する場合、第1楽章の提示部やスケルツォ楽章、あるいはフィナーレに指示されていることが多いリピートを実行するか否か、演奏者によって判断が分かれる。 宇野功芳のように、「レコードもラジオもなかった」時代は「聴衆にとってはどの曲もなじみがうすいので、2回ずつくりかえす方がわかりやすかった」からリピートが必要だったに過ぎない(つまり、現代においてリピートは必要ない)と明確にリピートを否定する人がいる(『クラシックの名曲・名盤』講談社現代新書)。 それとは逆に、朝比奈や大植のように「書いてあるものをそのとおりやるのは当たり前」とリピートの遵守を主張する人もいる。 僕は、「リピートをしなければならない」と主張する気はない。 しかし、「是非ともリピートを実行して欲しい」と願っている。 宇野のようなリピート否定論も一つの考え方ではあろう。 しかし、この意見はいかにもレコード評論家的な発想だと思う。 評論を頼まれた試聴盤を聴いていて、リピートされようものなら「提示部の解釈はわかったからとっとと展開部の解釈を聴かせてくれ、締め切りまで時間が無いんだ!」と誰でも思うことだろう。 しかし、音楽をライヴで聴くことを喜びとしている僕にとって、リピートもライヴならではの重要な楽しみなのである。

僕がリピートを愛好する理由は多岐にわたる。

第1に、リピートを省いた場合に必然的に演奏されなくなる1番括弧に、実は魅力的な要素が隠されている。 例えばベートーベンのエロイカ。 第1楽章の1番括弧に印象的な4和音がある。 音楽が消え入りそうに静かになっていったところに、この4和音がフォルテで突然襲い掛かり、快活な提示部へとリピートされるのである。 ライヴで聴いているとこの効果は絶大だ。 ベートーベン流びっくり交響曲と言っても良い。

第2に、リピートした瞬間の「してやられた」感が実に気持ち良い。 宇野はリピートを否定する理由として「全神経を集中して提示部を聴き終え、さてその次は、と胸をはずませていると、いちばん初めに戻ってしまう。 これでは緊張感が急になくなる」と述べている。 しかし僕は、むしろ緊張感が急になくなる面白さを楽しんでいる。 音楽が次へ次へと猛進しているときに突然その流れが止まり、さっき聴いた冒頭に戻ってしまうと、あまりの急激な変化に唖然とし、同時にそのようなとんでもない体験ができたことに満足する。 聴衆の気持ちを捉えることに成功した作曲者の高笑いが聞こえるようで、「彼の術中にはまった!」と感じる。 リピートを採用している作品には、ブラームスの3番などのように、かなり無理やりな印象を与えるものがあるが、これも「してやられた」感を強調するために意図されたものなのだと思う。

第3に、提示部を2度聴けることが実に面白い。 同じ曲でも演奏者によって解釈が異なり、その解釈の違いを楽しむことができる、ということは音楽鑑賞の醍醐味のひとつである。 そのため、その日の演奏者がどんな解釈で曲に臨むのか、たとえ聴き慣れた曲であっても聴衆は緊張を高めて第1楽章の提示部に聞き耳を立てる。 しかしリピート後は、演奏者の手の内をすべて知った後なので、リラックスして提示部を聴き直すことができる。 全く同じ音楽を、全く逆の心理状態で2度聴くことができるのである。 これはリピートでしか体験できない面白さである。 リピートという形式が定着したのもそうした面白さ支持されてのことではないだろうか。 朝比奈は東条碵夫に「ソナタ形式みたいなものは、同じものが反復されるという様式」と言っているが(『朝比奈隆 ベートーヴェンの交響曲を語る』音楽之友社)、蓋し名言だ。

第4に、リピートをすると音楽の空間的広がりが倍増する。 リピートをすると、その瞬間、まるでメビウスの輪が切られて円周が倍増する瞬間を見るように、音楽が突然広くなるように感じる。 これはライヴで体験しなければ絶対にわからないことだ。 リピートするかどうかで音楽のスケールが大きく変わり、場合によっては曲の印象さえ変わってしまう。 例えば、ベートーベンの7番は、攻撃的なリズムと圧倒的な推進力を持った筋肉質の引き締まった曲、という印象が強い。 しかし、リピートをするとこの印象が相当に変わる。 朝比奈が大フィルを指揮した演奏(1998年1月22日。フェスティヴァルホール)は、まるで広々とした田園風景が見えるかのような演奏だった。 朝比奈は金子建志に「〈7番〉は大シンフォニーですよね。 リピートとダル・セーニョを全部そのとおりにやるようになってから、〈ああ、なるほど大シンフォニーだな〉という実感が、ますます強くなりましたね」と語ったが(『朝比奈隆 交響楽の世界』早稲田出版)、全くそのとおりの演奏であった。 あるいは、クラウス・ペーター・フロールがやはり大フィルを振ったモーツァルトの40番(2007年2月22、23日。シンフォニーホール)。 すべてのリピートを遵守した結果、演奏時間は聴き慣れた演奏の倍近くなった。 そして、曲の印象までも大きく変わったのだ。 40番といえば、天才の閃きが炸裂するように新しい楽想が次々と湧き出す傑作だ。 しかし、リピートをすべて遵守したフロールによる演奏は、まるでブルックナーのような広がりと包容力を備えていた。 繰り返されることによって楽想の新鮮さは失われたが、その分、モーツァルトの歌に内在する優しさや温かさが引き立った。 僕はあらゆるモーツァルトの作品の中でも人間臭さを感じさせるこの40番を最も愛するが、フロールの演奏を聴いて一層この曲が好きになった。

こうしてリピートの効用を書いていくと、リピートは音楽の面白さと大きさを引き立たせる実に便利な手段だということがわかる。 これは僕の想像であるが、朝比奈にしろ大植にしろ、こうしたリピートの効用が彼らの表現に合っているからリピートを採用したのであり、「書いてあるものをそのとおりやる」という主義主張は後付けなのだと思う。 朝比奈は言うまでもなく大陸的なスケールの大きさを誇る音楽家であり、リピートはそうした彼の芸術を後押しするものだったと言えよう。 また、大植は、モーツァルトをバックボーンとする人なのだと僕は感じる。 それも、鋭敏で閃光走る神童モーツァルトではなく、温かく包容力のある人間モーツァルトである。 そうした大植が、リピートの採用によって音楽に広がりとおおらかさを求めるのは当然の成り行きであろう。

果たして大植は、公約どおり、ベートーベンが指定したすべてのリピートを実行した。 そのため、4・5・6番を続けて演奏した夜は、シンフォニーホールを出たのが午後10時に近くなってしまった。 しかし、帰りがどんなに遅くなろうと、良い音楽を聴けたのだから大満足である。

遠藤 啓輔
1973年、愛知県生まれ。 現在、奈良市在住。 オストメール・フィルハーモニカー管弦楽団、京都フィロムジカ管弦楽団トランペット奏者として活動する一方で、全国のコンサート会場に聴衆として出没する。 熱愛する作曲家はブルックナーとシベリウス。 自慢は、ブルックナー、シベリウス、マーラー、ショスタコーヴィチのすべての交響曲をライヴで聴いたこと。他の作曲家については言わずもがな。