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2011/12/25 第10回演奏会は終了しました。1,300名を超えるご来場、ありがとうございました。次回の演奏会は未定です。決まりしだい、お知らせいたします。

「音楽はライヴが面白い ♯7」

各地のプロ・オーケストラが新シーズン(2010年度)の予定を発表している。 近年、どこのオーケストラも個性を重視したプログラミングになっており嬉しい限りだが、中でも楽しみなのが5月27日の関西フィル定期だ。 曲目はウォルトンの交響曲第1番。 ライヴでその魅力を知った大好きな作品だ。

ウォルトンの1番を初めて聴いたのは1999年1月14日の大阪フィル定期で、指揮はイギリス音楽を十八番とする尾高忠明。 珍しい曲だったのでCDで予習をしてから聴きに行ったのだが、ライヴでの圧倒的迫力は想像を絶するものだった。 大オーケストラの音響が雪崩のように襲ってくる第1楽章や、堂々としていて威厳のあるフィナーレの美しさは、フェスティヴァル・ホールという巨大な箱と大阪フィルという老舗オケの印象とも相まって、今も生々しく記憶している。 ウォルトン1番に対する好印象をさらに決定づけたのは、湯浅卓雄指揮の関西フィル定期だ(2002年7月19日、シンフォニー・ホール)。 尾高/大フィルの風格のある演奏とは打って変わって、こちらは若々しい熱気を前面に出した攻撃的な演奏。 冒頭から、関フィルの顔・朝倉祥古のオーボエ・ソロがすさまじいパワーとスピード感で音楽を牽引する。 そしてフィナーレでは2セットのティンパニが轟き圧倒的な深みのうちに大曲を締めくくった。 今年5月の演奏会では、尾高の指揮で関フィルが演奏することになっている。 風格ある指揮をした尾高と攻撃的な演奏をした関フィル、この両者が組むとどのようなウォルトンになるのか、楽しみでならない。

良いライヴを聴くことは作品の良さを理解する最高の近道だ。 これは、ウォルトンのような演奏機会の少ない作品に限ったことではない。 僕の場合、モーツァルトの良さに気付いたのもライヴの会場であった。 実を言うと、僕は若いころ「モーツァルトは綺麗なだけの曲でつまらない」と本気で思っていて、演目にモーツァルトの曲が混じっていたらわざと寝ることさえあった。 そんな僕も、小川典子や竹澤恭子が演奏する協奏曲、師匠の池田俊が指揮する管弦楽作品のライヴなどを通して、徐々にモーツァルトの良さに気付いていった。 中でも僕がモーツァルトを好きになる決定的な機会となったライヴが、若杉弘指揮大阪フィル定期での「39番・40番・41番」というオール・モーツァルト・プログラムであった(1996年1月19日)。 「モーツァルトには興味がないが、とりあえず大フィル定期は全部聴くことに決めたから」という消極的理由でフェスティヴァル・ホールに向かい、安いが音響最悪の1階後列の席を購入。 そんな投げ遣りな聴き方だったのにもかかわらず、僕はその日の演奏でモーツァルトの魅力に打ちのめされた。 「どれもこれも綺麗なだけの似たような曲」と思っていたのは大間違いで、モーツァルトの作品はそれぞれが実に個性的だということがわかったのだ。 堂々たる構築美を誇る39番、泥臭ささえ感じさせる感情豊かな40番、徹底的に蒸留され純化された響きを持つ41番、というように、3曲の交響曲が全く異なる魅力を放っていた。 僕は中でも40番の人間臭さに魅了された。 僕は「モーツァルトで一番好きな作品は?」と問われれば「40番だ」と答えることにしているが、その原点はこの若杉/大フィルのライヴにほかならない。 若杉も亡くなり、フェスティヴァル・ホールも取り壊されたが、この日の演奏会の記憶は、モーツァルトを聴くたびに必ず蘇ってくる。 モーツァルトの良さに気付かせてくれたことへの深い感謝の思いとともに。

このように、ライヴ演奏を聴くことで、作曲家や作品に対する印象が劇的に好転することがある。 にもかかわらず、毛嫌いされて聴いてさえもらえないこともある不幸な曲がある。 それが、僕たちオストメール・フィルが演奏しようとしているブルックナー9番の補筆完成フィナーレだ。 ブルックナーは最後の交響曲である9番を第3楽章まで完成させ、病魔と闘いながらフィナーレの作曲を続けたが完成を目前にして力尽きた。 今日、9番は完成された第3楽章までを演奏するのが一般的だが、一方で遺された膨大な楽譜からフィナーレを補筆復元する研究も進んでおり、モーツァルトのレクイエムやバルトークのヴィオラ協奏曲と同様、充分に鑑賞に堪えるレヴェルの補筆完成4楽章版を聴けるようになった。 にもかかわらず、どういうわけかブルックナーの補筆完成版に対しては、極端に毛嫌いして聴くことすら拒否するという人が少なからずいる。 僕は補筆完成4楽章形式によるブルックナー9番を何度かライヴで聴いたが、そうした場でも、「食わず嫌い」のアンチ補筆主義者がいることを思い知らされた。 飯守泰次郎指揮名古屋フィル定期(2003年6月19日、名古屋市民会館)では、この珍しい演奏をよりよく理解してもらおうと、演奏前に飯守がピアノを使って懇切丁寧に解説した。 その際「どうしても補筆完成という手段が許せない方は、3楽章が終わったら帰ってくださっても結構です」と飯守が謙虚な姿勢を示したところ、3楽章が終わったところで本当に帰ってしまったタワケがいた。 もっとひどかったのは内藤彰指揮東京ニューシティ管のときで(2006年9月28日、東京芸術劇場)、3楽章が終わった後、何やら暴言を吐いて出て行った大馬鹿者がいたのである。 敢えて汚い言葉を使ったが、僕はこのような人たちを許せない。 もちろん、音楽に対する考え方は各人が自由に持つべきであり、補筆完成に対して否定的な意見があるのも当然である。 しかし、ライヴを聴いてもいないのに否定だけはするという態度は実に卑怯だ。 ましてや、曲の途中で物音を立てて退席したり暴言を吐いたりすることは、静かに音楽を聴く権利を侵害する行為であり犯罪に等しい。 僕は、飯守のように「3楽章が終わったら帰ってくださっても結構です」などと言う気持ちは一切無い。 補筆完成された第4楽章が終わるまで、すべてを聴き届けていただきたい。 補筆完成に否定的な意見の持ち主であっても、僕たちのライヴを聴けば、きっと考えが変わるはずだ。

遠藤 啓輔
1973年、愛知県生まれ。 現在、奈良市在住。 オストメール・フィルハーモニカー管弦楽団、京都フィロムジカ管弦楽団トランペット奏者として活動する一方で、全国のコンサート会場に聴衆として出没する。 熱愛する作曲家はブルックナーとシベリウス。 自慢は、ブルックナー、シベリウス、マーラー、ショスタコーヴィチのすべての交響曲をライヴで聴いたこと。他の作曲家については言わずもがな。